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みなさんは「民藝」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

民藝とは「民衆的工芸」の略語で、約100年前に思想家・柳宗悦と、陶芸家の浜田庄司、河井寛次郎らによってつくられた言葉です。

柳宗悦たちは、名もなき職人たちの手仕事によって生み出された日常づかいの生活道具には美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。

そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝品には用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい美の価値観を提示し、民藝は豊かな暮らしに不可欠と述べています。

そして世界の民藝品を収集していた柳宗悦が特に心を奪われたのが沖縄だったといいます。

八清では「京都の暮らしを"もっと"豊かに!」というタグラインを2023年に制定し発信を行ってきました。

豊かな暮らしとは何なのかを自分なりに考えてきましたが、その言葉の意味をいまいち掴みきれていませんでした。

そこで、前置きが長くなりましたがタグラインにもある「豊かな暮らし」について理解を深めるため、柳宗悦が心を奪われたという沖縄へ向かうことにしました。

やちむんの故郷、壺屋やちむん通り

一番身近な民藝品といえば、やっぱり焼物。

ということで、沖縄の伝統的な焼物「やちむん」に所縁ある、那覇市の「壺屋やちむん通り」と、読谷村(よみたんそん)にある「やちむんの里」の2か所を訪問しました。

やちむんとは、焼物を沖縄口(うちなーぐち)で発音した言葉で、「焼き=やち、もの=むん」ということです。

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はじめに紹介するのは、那覇市にある「壺屋やちむん通り」。

国際通りから徒歩約10分ほどの場所にあり、約400mもの通りにやちむんにまつわるお店が建ち並ぶ商店街です。

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平和通り側からの入口を入ってすぐの場所に「壺屋焼物博物館」があり、やちむんの歴史や製法、登り窯の跡を保存・展示しており見学できます。

やちむん通りの歴史は、沖縄がまだ琉球王国だった1682年に、当時の琉球国王が焼物産業の振興を目的に県内に点在していた陶工を壺屋という場所に集め、焼物の村と「壺屋焼」が誕生したことからはじまります。

伝統的な技法で発展した「壺屋焼」ですが、1970年代に入り市街地にある壺屋は焼物の製作時に発生する煙の公害問題が起こり、那覇市は薪を焚く「登り窯」の使用を禁止しました。

それにより、陶芸家たちはガス窯への転換を余儀なくされたものの、今もなお壺屋で壺屋焼を受け継ぎ、やちむんの故郷としてやちむんファンに愛され続けているのが、現在のやちむん通りだそうです。

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通りの途中にやちむんで装飾された広場があったり、奇跡的に戦火を免れた石垣に囲まれた昔ながらのまち並みを歩くことで、沖縄のローカルな空気感を感じることができました。

読谷村「やちむんの里」

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やちむん通りがやちむんの故郷だとすると、やちむんの里はしばしば聖地と表現されます。

というのも、公害問題で伝統的な登り窯の技法を失ってしまった壺屋焼の窯元が移った先こそが、沖縄県中部にある読谷村でした。

読谷村は当時文化奨励に積極的だったこともあり、読谷村に登り窯を作ることを陶芸家たちに提案したそうです。

人間国宝の金城次郎さんを始め、登り窯にこだわりを持つ一部の陶芸家たちが読谷村に移り、工房を構えることで村が発展、やちむんの里として知られるようになりました。

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(北窯:4名の職人が所有する共同窯)

やちむんの里には、20軒ほどの工房が点在し、村を散策しながら窯元ごとに個性豊かなやちむんをたくさん見ることができます。

村はのんびりとした時間が流れて、工房にいる猫ちゃんやワンちゃんに出会ったりして癒されたひと時でした。

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こちらは、村を訪れた目的でもある、やちむんの里のシンボルの登り窯(読谷山焼共同窯 )。

斜面を利用して階段状に9つの窯室が連なり、一番下の窯で薪を燃やすと上の窯へ炎の熱が段々と登り、全体に行き渡るという仕組みです。

この共同窯では年に数回火入れが行われ、その際は約3日間、火を絶やさないよう昼夜問わず職人たちが交代で見守るそうです。

魅力的なやちむんたちは、職人たちの熱い思いの上で作られているんですね。

窯元によって個性豊かなやちむんに共通する特徴といえば、他の地域の焼き物よりも厚みと丸みを帯びているということ。

やわらかい形状は温かい印象と、手に持った際に安心感を与えてくれます。

絵付けの鮮やかさと躍動感のあふれる模様も特徴で、色は沖縄の青い海を彷彿させるようなコバルトブルーや、棕櫚の木、南国の植物を思わせる緑(オーグスヤ)、これらの色と対になる茶色(飴)が多く用いられます。

他にも「魚文線彫り」という有名な技法もあり、これは金城次郎さんが好んだ技法で、魚などをU字に加工した細い針金を使って描く技法だそうです。

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購入したシーサー

たくさんの素敵なやちむんを前に目移りしてしまいましたが、やちむん通りでは長皿と小さなシーサーの置物、やちむんの里では壺のような形のようじ入れと小さな植木鉢を購入しました。

沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)

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那覇市を走るモノレール「ゆいレール」に乗って向かったのは、「おきみゅー」の愛称で親しまれる沖縄県立博物館・美術館。

余談ですが、ゆいレールの由来は沖縄方言の「ゆいまーる(助け合うという意味)」からきているそうです。

まち中に突如現れる要塞のような白い外観は、沖縄の「城(グスク)」をモチーフにデザインされており、2008年の公共建築グッドデザイン賞も受賞しているそうで、建物自体も見ごたえたっぷり。

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おきみゅーは全国でも珍しい博物館と美術館が併設された複合施設で、沖縄の自然・歴史・文化・芸術に一度に触れることができます。

博物館では、この後に向かう予定だった竹富島についての展示や、沖縄の伝統的な暮らしや風習にまつわる展示があり次の予定の予習をすることができました。

他にも、私が訪れたときには沖縄の染織に関する展示がされており、紅型や芭蕉布などの作品を鑑賞することができました。

美術館では、沖縄県出身の美術家である照屋勇賢さんの個展が開催されており、沖縄のこれまでとこれからを紅型や芭蕉布をはじめ様々な素材で表現したアート作品も鑑賞しました。

今回のテーマは民藝だったので、暮らしにまつわる展示について紹介しているのですが、個人的には沖縄の島々に住む動物の紹介などの展示も楽しく見ることができたので、那覇に訪れた際には是非足を運んでみてください。

沖縄県立博物館・美術館

沖縄県那覇市おもろまち3-1-1

Webページ

沖縄の伝統的な暮らしに触れる

これまで紹介したものが「衣・食・住」の衣と食とすると、次に紹介するのは「住」の部分になります。

最後に、沖縄の伝統的なまち並みと暮らしについて知るため「竹富島」へ向かいました。

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赤瓦の屋根が連なり、古き良き沖縄の原風景を色濃く残す竹富島。

石垣島から高速フェリーで約15分ほど揺られると到着するこの島は、全周が9kmしかなくサンゴ礁の隆起によってできた島です。

竹富島は原風景と文化を守るため、1986年に基本理念である「竹富島憲章」を定め、島民が「うつぐみ(一致協力のこと)」の精神とともにこの美しい島の伝統を今に残しています。

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集落を散策すると、どこからか三線の音が聞こえ、サンゴの石垣、白砂の道、原色の花々が咲く竹富島の風景と暮らしを近くに感じられます。

ゆっくりと流れる時間の中で、島に息づく伝統と文化を体験することができました。

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島を散策して気づいたのが、竹富島のシーサーは本島とはデザインが異なっているということ。

調べたところ、竹富島のシーサーはお家を建てた際に、赤瓦を葺く職人さんが余った瓦と漆喰で作り、自分の名刺がわりに置いていったことが始まりだそうです。

本島では2頭でお家を守っていることが多いですが、ここのシーサーの多くは1頭でお家を守っているのも竹富島ならでは。

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観光センターのシーサー

ポーズや表情も個性があり、お尻をあげているもの、笑っているものなど愛嬌にあふれ、つい目で追ってしまいました。

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そして竹富島を知るために向かったのが、港から徒歩約10分の距離にあるビジターセンター「竹富島ゆがふ館」。

竹富島の伝統文化や芸能、暮らしにまつわる道具などを展示・紹介しています。

施設の名前になっている「ゆがふ」は「天からのご加護により豊穣を賜る」という意味の 「世果報(ゆがふ)」からとられているそうです。

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ミンサー織でつくられた椅子

竹富島ゆがふ館

Webサイト

また、竹富島には重要無形文化財にも指定された、600年以上の歴史を持つお祭り「種子取祭(タナドゥイ)」というものがあります。

種子取祭とは、祓い清めた土地に新しく種を蒔き五穀豊穣を祈るというもの。

種子取祭では、うつぐみの精神から島民はもちろん、島を離れた人々も里帰りして祭りに参加し大勢の人で島は祭り一色になるそうです。

私が竹富島を訪れた時期もちょうど、この種子取祭の直前で島の小学校ではお祭りの練習をしている様子などを見ることができました。

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先述した通り竹富島はサンゴ礁の隆起によってできた島のため、土地は琉球石灰岩からなり土壌と水に恵まれないことから、作物を育てるのもかなり苦労をしたといいます。

竹富島の人々は、厳しい環境を海や自然からの恵みで生かされ、祈りと感謝を自然に捧げ、助け合いで乗り越えてきたそうです。

竹富島は「うつぐみの島」と、ゆがふ館で大きく紹介されていました。

改めて、うつぐみとは協力し助け合う精神であり、厳しい生活がそれを育んだことがわかりました。

沖縄で見つけた「暮らしの豊かさ」とは

今回の研修で見ることができた、沖縄の民藝品と文化の数々。

やちむんで作られたシーサーはお家に住む人の幸せを祈るもの、ミンサー織は「いつの世までも末永く幸せに」という大切な人への祈りを込めたもの、竹富島の種子取祭は豊作を祈願するもの。

意味を調べてみると、どれも祈りの形であるということがわかりました。

竹富島の基本精神である「うつぐみ」や、「ゆいまーる」然り、暮らしの豊かさとは他人を思いやる気持ちであり、そんな人の心の豊かさが沖縄の民藝品に表れているのだと思います。

柳宗悦が心を奪われた沖縄の民藝について改めて考えながら、沖縄でお裾分けしてもらった豊かさを、今度は自分が京都で暮らす人たちに分けていけるようにしたいなと思いました。

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八清社員が日本各地へ興味が赴くままでかけ、見て、聞いて、普段の業務では得られない知見を広めてきましたのでレポートします。

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