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昨年の出張研修先では金沢で金箔に目が眩んだ事から、今年はかつて金鉱として栄えたまち、台湾の九份に行ってきました。

九份といえば金鉱というよりも、石段が続く路地「豎崎路(シュウチールウ)」と名物茶藝館、「阿妹茶酒館(アーメイチャーチウクワン)」が有名で、提灯が灯る夕刻の幻想的な風景がSNSで話題となり、その独特の雰囲気を醸す印象的なたたずまいやまち並みは、映画『千と千尋の神隠し』のモデルではないかとも言われています。

台湾で魅力的に形成された建築物とまち並みを支えるものは何か探りたいと思います。

個人的には10年ぶりとなる海外で新鮮でした。

金脈で傾斜地の価値を採掘する

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九份までの道のりは台北駅から瑞芳駅まで電車で1時間程度に加えて、バスに乗り換え20分。

市街地からはずいぶん遠方の山間部に入っていきます。

山奥に入っていく秘境への非日常感ある道中を楽しみつつ、誤って逆方向行のバス停でバスを待ったり、異常に手数料の高い外貨両替をしながら、目的地の九份に着いたのは昼を過ぎていました。

山間部の為、年間3分の2も雨が降るようで、残念ながらその日も朝から降り続いていた雨は、一向に止む気配はありません。

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そんな雨の九份は平日にも関わらず、多くの観光客で賑わっていました。

九份は山の斜面にへばりつくように形成されたまちです。

今では観光地として細い路地内に多くの店が建ち並んでいますが、19世紀の九份一帯には家が9軒しかなく、物売りにはいつも世帯数の「9つ分」を注文していたことが地名の由来だと言われています。

日本統治時代には、関西財界の重鎮・藤田伝三郎が、金鉱をこの地で採掘し始めたそうで、当時金鉱として繁栄した九份には多くの人が集まり、集落が栄え、学校、映画館、商店、酒楼が次々とでき、「黄金山城」や「小香港」とも呼ばれました。

その後、70年代に金鉱は閉山し町は衰退しますが、1980年代後半の映画『悲情城市』で九份がロケ地とされたことをきっかけに、観光地として発展する事になります。

九份老街のバス停から、狭い路地の両側に多くの店が軒を連ねる古くからの商店街「基山街」へ入っていきます。

観光地という観点では、京都の錦市場に近い印象がありました。

立地が傾斜地という事もあり、その路地は起伏に沿った石畳で先が見通せず、台湾のノスタルジックな雰囲気が漂います。

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基山街に沿って山を登り、豎崎路に差し掛かると視界が開け、提灯が軒先に並ぶレトロな建物や趣ある石段、九份の山間と深澳湾を一望できる絶景が...

目の前に広がる筈でしたが、残念ながらその日は雨と霧で良く見えません。

多少は想定していたものの、現地の細い路地の中で傘を持った多くの観光客が非日常から少し現実へ引き戻されます。

次は是非とも晴れた日に行きたいですね。

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気を取り直して、豎崎路にある最も有名な阿妹茶酒館でお茶を頂きました。

本格的な中国茶は初めてでしたが、とても美味しかったです。

阿妹茶樓の建物は、かつて金鉱のまちとして栄えたころ、九份で一つしかなかった鍛冶屋でした。

築100年以上の木造3階建ての建物で、九份の金採掘量が減って閉山となった後に茶藝館になりました。

店名「阿妹」の由来は、初代オーナーの三番目の娘さんの愛称。

その阿妹さんは、店のデザインを手掛け、二代目オーナーも務められた方だそうです。

昔の九份の建物の特徴がありながらも日本の温泉旅館にも似た外観の要素を持ち、内外随所に多様性に富んだ文化が融合する建築物です。

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通してもらった最上階のテラス席からは、晴れていれば九份の絶景を一望しながらお茶を楽しめます。

今回は雨によりその絶景に目を奪われなかった分、建物自体に注目できました。

構造的な強度をどこまで担保されているかはわかりませんが、建物の裏側には急激な高低差を支える擁壁が見えます。

傾斜地に広がる周囲の古い建物も崖の高低差を活かした造りになっており、擁壁や石壁、石垣、岩壁などが随所にあります。

迷路のような路地も建物と同様に生活に密着した形で高低差に組み込まれており、崖で暮らす人々の生活がこの地域で無二の魅力につながっていると思います。

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18:00を過ぎて、赤提灯に灯がともり九份のまち並みは表情を変えます。

エキゾチックなまちの雰囲気やフォトジェニックな演出、非日常感も全てはこの傾斜地があってこそ成立つものだと感じました。

その魅力を最大限に活かしたまちの形成が人を惹きつける魅力を生み出しているのではないでしょうか。

自発的なエリア錬金術を学ぶ

 

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中山北路の「条通」地区からほど近くにある赤峰街は日本統治時代、多くの日本の下級公務員や台湾の労働者階級が暮らすエリアで、重層長屋建ての日本式宿舎と台湾式の戸建て住宅が混在しています。

日本統治時代後には、地方から多くの労働者が集まり日本式宿舎にも台湾人が住むようになります。

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1棟の狭くて長いれんが造りの台湾式戸建て住宅には8世帯も入居する事もあったそうで、学生、教師、公務員、鍛冶屋の労働者から中山北路のスナックで働く女性など様々な人が暮らす下町を形成しました。

その当時、承徳路には鍛冶屋が数多くあったため「打鉄仔街(鍛冶屋街)」と呼ばれており、隣の赤峰街は町工場や中古の自動車部品を売る店が多く、「歹鉄仔街(くず鉄街)」という名前がついたそうです。

訪れたこのエリアは鍛冶屋街やくず鉄街という名前の印象に似合わず、陰気で治安が悪そうな雰囲気は全くありませんでした。

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明るく綺麗なまち並みの中で、今なお作業が行われている町工場と交じって、既存建物をリノベーションした新しいショップが流入し始め、このエリアに新たな活気を生み出していました。

飲食店や服飾、雑貨販売などレトロでお洒落な特色ある店が多かったです。

台湾内でも建物やエリア開発で、大型資本が導入され大きく発展する場所が少なくありませんが、このエリアはまち並みを損なうことなく各ショップ単位でリノベーションが進んでいます。

結果、従来の町工場や下町のディープな生活感とレトロモダンな新しいショップ、クリエーターのアートが絶妙に混在する、不思議な雰囲気を醸し出しています。

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長年オイルが染み付き錆の臭いが漂う車の修理工場の隣に、お洒落な雑貨店が隣接している、こんなコラボレーションが魅力になっています。

建物間隔が80㎝ほどの路地を縫って、下町の生活感を感じながら辿り着くドメスティックブランドショップや珈琲店も特別感を感じますよね。

まちに点在するストリートアートも楽しいです。

赤峰街・承徳路では新旧の産業と価値観がぶつかり合い、融合し、独特の雰囲気が形作られています。

それが大規模な開発ではなく、そこで暮らす人々が自ら付加価値を高めていく自発的なまちづくりであることが注目される要因ではないかと感じます。

大都市中山に隣接しつつも独自性を失わず、新しい価値観を生み出す場として非常に重要なエリアです。開発の中心が環境や建物整備ではなく、人だからこそ成し得る魅力だと思いました。

奇しくも、金を求めて九份の路地を訪れた後、くず鉄街の路地に行き着くあたりは、意図せず「千と千尋の神隠し」の一場面に遭遇したような台湾研修でした。

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八清社員が日本各地へ興味が赴くままでかけ、見て、聞いて、普段の業務では得られない知見を広めてきましたのでレポートします。

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