はじめまして、サービスマネジメント部の岡﨑です。八清では営業事務をしています。東寺の五重塔と源氏物語が好きで、スエヒロガリでは主に京都の歴史や文化をテーマにした記事を書いていく予定です。
場所の表し方
「どこに住んでいるの?」「職場どこなの?」と聞かれたらあなたはどう答えますか?
おそらくある程度公共交通機関の発達した街中に住んでいる場合、駅名で答える方が多いのではないかと思います。
少なくとも、私が学生時代を過ごした神戸では、場所をざっくり伝えるのに、「御影」「岡本」「仁川」など駅名を伝えれば通じていました。
たぶん関東も街中は同じ感じではないでしょうか?(ちなみに私の出身地は電車のない田舎だったので具体的な町名や地区名を伝える必要がありました。)
ところが、です。
京都市中心部では駅名で場所を伝えようとしても、伝わらない場合があるかもしれません。
以下は、私が八清に内定をもらった後、京都にお住まいの先生とかわした会話の内容です。
先生「職場はどこ?」
私「烏丸です」←阪急「烏丸」駅のつもり
先生「烏丸のどこ?」
私「・・・?烏丸です」
先生「だから烏丸っていうのは北から南に伸びてるやろ(苦笑)」
私「!」
そうです。
どうも一般の京都人にとって、烏丸とは阪急「烏丸」駅ではなく、烏丸通のことを指しているらしい、というかそもそも烏丸駅はそれが烏丸通にあるから烏丸なのだ!ということを私はその時はじめて知りました。
京都は平安時代から通りが碁盤の目状になっていて、通りにいろいろな名前がついているということや通りを覚えるための唄があることは知っていました。
しかし、京都では通りを使って場所を表すのがわりと普通であるという感覚は知らなかったのです。
通りで場所を表す
たとえば阪急烏丸駅は烏丸通と四条通が交わる場所にあるので一般に「四条烏丸」と表現されます。
地下鉄五条駅があるのは烏丸通と五条通の交わる部分なので「五条烏丸」になりますし、阪急大宮駅のある場所は「四条大宮」になります。
いくつか例外もあります。
東大路通の交差点は「東大路○○」ではなく、東山五条のように「東山○○」になります。
また東大路通と今出川通の交差点は、一般に「百万遍」と呼ばれます。
交差点部分だけではありません。
たとえば京都市中心部の住所にはよく通りの説明が入ってきます。
弊社所在地は、
京都市下京区東洞院通高辻上る高橋町619番地
ですが、下線部分が通りの説明になっています。
「上る」は北に行くこと、「下る」は南に行くことです。
これは、東洞院通を高辻通から北方向に進んだところにあるよ、という意味です。
「蛸薬師通新町西入不動町」だと蛸薬師通を新町通から西に進んだところにある不動町という意味になります。
「油小路通今出川上る西入実相院町」だと、油小路通を今出川通から北に進んで西に進んだところにある実相院町、です。
上のイラストは「上京区下木下町」という町の範囲を示しています。
不動産のポータルサイトで上京区下木下町を登録しようとすると、町名選択欄にはこのような選択肢が出てきます。
室町新町の間寺之内上る下木下町
室町新町の間寺之内上る東入下木下町
室町新町の間寺之内上る西入下木下町
これは室町通と新町通の間にある通り(=衣棚通)を寺之内通から、北に進む、北に進んで東に進む、北に進んで西に進む3パターンがあるということですね。
もう町名はいらないのでは、とさえ思ってしまうくらい懇切丁寧に説明されています。
この「○○通△△下る」のような場所の表し方は日常会話でも使われます。
「三条通から新町を下ったところにあるお店なんですけど...」のような感じです。
八清は不動産業者ですので、社内で「○○通のどこそこにある物件が」という会話がよく飛び交っていますが、私は入社当初、そんな会話を聞いてもどの辺りにある物件なのかさっぱりわかりませんでした。
しかし、不動産業で働かずとも京都で暮らしていくにはある程度通りを覚えておくことは必須と言えるでしょう。
覚えてしまうと便利
通りを覚えるための唄もあります。こちらは東西の通りの唄です。
まる たけ えびす に おし おいけ
あね さん ろっかく たこ にしき
し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう
せった ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう しち(ひっ)ちょうとおりすぎ
はちじょう(はっちょう)こえれば とうじみち
くじょうおおじでとどめさす
八清の社員たるもの、このくらいは常識ですね、と言いたいところですが、私、実は覚えておりません。
大きな通りと自分がよく利用する通りを軸になんとなく覚えておけば、まあまあ適切な相槌を打てるレベルにはなります。(ほんとはちゃんと覚えた方がいいのですが...)
でも、覚えておくと、けっこう便利なこともあります。
地図がなくても迷子にならないのです!
「この通りにいるってことは、このまま北に進めば大丈夫だな」
「あっちに○○通があって、こっちに△△通があるってことは、こっちが東方向」
という感じで、歩いたことのない道でもどんどん進んでいけますし、自分が市内のどの辺りにいるのか、位置関係をつかみやすいです。
たとえば北野天満宮の前の通りは今出川通です。御所の北の端も今出川通です。
北野天満宮と御所は2km以上離れており、北野天満宮から御所を見ることはできません。
でも「御所の北の端は今出川通」だと知っていれば、今出川通を東に進めばやがて御所の北側にたどり着くということがわかります。
逆に覚えていないと迷子になりやすいかもしれません。
私が神戸にいた頃は海側か山側かで方角を判断していましたが、京都市ではその方法が使えないし、目立ったカーブの無い道は地図上ではどれも同じに見えてしまうからです。
通りの歴史
この碁盤の目のような通りは平安京に起源を発しています。
平安京の図を日本史の教科書でご覧になったことがあると思います。
北側に大内裏があり、そこから朱雀大路という大きな通りが南にのび、芥川龍之介の『羅生門』の舞台である羅城門が都の入口についていました。
創建当初、通りの名は定まっていなかったようですが、そのうち各通りが固有の名称で呼ばれるようになっていったようです。
平安京に遷都してから現在まで、災害による影響や新しい建造物の造営、為政者による都市改造等で都市の大きさや人々の居住域は大きく変化してきました。
そのため現在の通りは平安時代のものとはずれていたり、幅が変わっていたり、名称が変わったりしています。
平安京のメインストリートだった朱雀大路は幅が約84mもあったそうですが、現在は千本通と名を変え、広いところで4車線、狭いところで2車線の普通の道路になっています。
(現在の千本通、JR二条駅前)
また現在、五条大橋には牛若丸と弁慶の像が設置されています。
牛若丸と弁慶が五条大橋で出会ったという説に基づいているのですが、平安時代の五条大橋がかかっていた五条大路は現在の松原通にあたるそうです。現在の五条大橋は、出会ったとされる場所とは実は関係ないのです。(そもそも橋で出会ったのは作り話という説もありますが。)
(逸話にゆかりのある松原通の商店街にかかる旗)
(五条大橋のたもとに据えられた弁慶と義経像)
現在の五条通は幅員約50mのとても広い通りですが、これは第二次世界大戦中に防火帯形成のために家屋の強制撤去が行われたことによるもの。
昔は5mほどの通りだったそうですから、かなり多くの建物が撤去されています。
京都の通りは一本一本に歴史が詰まっています。長い歴史の中で失われたものもあるし、これから加わってゆくものもあります。
平安時代や室町時代、あるいは江戸時代を想像しながら歩けるのは京都ならではではないでしょうか。
なにげなく通っている通りの歴史を調べてみると歩くのがちょっと楽しくなるかもしれません。
木村 哲夫
大変ですね。小生85歳の京の古だぬき。
ハチセには、いろいろお世話になっております。
現在「NPO 都草」会員。
町中の散策に、和歌、能楽を入れ、楽しんでいます。
都草の例会で「町中の能楽を楽しむ」を披露予定。