安土桃山時代
秀吉の都市改造 一
特に秀吉の都市改造は後の京都に大きな影響を与えます。栄華の象徴である聚楽第の造営に着手する一方、平安以来続いていた町割りから、無駄な空き地を宅地に変える短冊型の町割りへと転換。 ここから生まれるたのが、大きな街区の中央に道を通してできたのが「突抜町」。今でも ”天使突抜町”や”越後突抜町”といった町名がその名残りを表しています。現在の「富小路通」は、この改革の際に作られた通りであると言われています。
道に面して建てられたため区画の中央が空いていた
区画の中央に道を通す
新たに通した道の両側にも建物が並び、新たな町を形成する
「さらに区画の奥に残った空閑地の有効利用として、小道を通し、さらに細かな区画割りを行います。それがその後の京都の町を形成する「路地」や「図子」を生み出すことになります。
路地・図子の発生
通りと通りの間に通された小道は総称して「路地」と呼ばれ、中でも突き抜けずに袋小路になっているものを「路地」、向こう側の通りまで突き抜けているものを「図子」と呼び分ける場合もある。今でも”了頓図子町”などの町名に名残が見られる。
秀吉の都市改造 二
そして聚楽第を中心に武家や公家を配置し、寺院や商工業者などを集住させ武士が支配する城下町へと改造が進みます。さらには、外敵からの防御壁として都の廻りを取り囲む「御土居」と呼ばれる城壁もつくられ、御土居の内側を「洛中」、外側を「洛外」と定めました。「京の七口」はこの御土居の往来に定めた「口」と呼ばれる関所のことです。現在の京都の町は、平安京をベースに秀吉が改造を加え、近代都市に発展してきたと言えます。
御土居と京の七口
秀吉の京都改造の大きな柱として行われたのが「御土居堀」。町全体を城壁で囲み、外敵からの防御壁とした。その側を「洛中」、外側を「洛外」とし、その関所を「口」と呼んだ。その関所が有名な「京の七口」である。この関所は時代によって変化し、この他にも「八条口」など多数ある。