歴史

平安時代

京都市地図

平安京創建と居住の発生

中国の長安の都を模したという創建当初の平安京は、朱雀大路を中心に東西約10㎞、南北約20㎞にわたり造られました。都は南端の羅城門から伸びる朱雀大路を中心に条坊制の都市システムで街区整備されていました。朱雀大路を境に「左京」と「右京」に分けられ、東市と西市という官営の繁華街がありました。この頃、座って物を売るための小屋が現れていたことは、文献の中に「店屋」(マチヤ)として登場しており、現在ではこれが町家の原型とされています。
しかし、湿地帯が多かった右京は荒廃し、しだいに左京に人が集まるようになります。そこで庶民が新しく設けた「町小路」(現在の新町通)がメインストリートとなり、道に面して物を売る施設に住居を併設した小屋が立ち並ぶことになります。

東西官寺

平安京の二大官寺として建てられた「東寺」と「西寺」。現在まで続く東寺(正式には教王護国寺)に対し「西寺」は火災による消失と再建が行われたが、いつしか荒廃が進みその姿を消した。現在ではその跡地と推定される公園に石碑が残されるだけである。

平安京の都市システム

「左京」と「右京」の中でも、さらに細かい街区割として「条」「坊」「保」といった条坊制の街区割りがなされ、その中でも特に庶民の区画は「四行八門制」の宅地割がなされていたようです。

条坊制の街区構成

朱雀大路を中心に「左京」と「右京」に分けられ、東西の大路によって「条」、南北の大路によって「坊」と分けられた。さらに「坊」は小路によって16の街区に分けらる。1坊は4つの「保」に分けられ、1保や4町で構成されていた。つまり、1坊=4保=16町ということになる。

四行八門の宅地割り

庶民が暮らした「町」は、1ブロックをさらに細かく縦に4、横に8で区切られ、32分の1の大きさを一つとした。これを四行八門制という。

祭事とのかかわり

京町家の成立には祭事も深く関わっています。平安時代、単に祭りと言えばこの祭りのことを指すぐらいであった「葵祭」。そして平安時代後期には、今の祇園祭の元となる「祇園御霊会」が始まります。平安時代の都の様子が描かれた絵巻物には、町家の原型となる小屋の桟敷(さじき)から、祭事の際に練り歩く行列を町衆が見物している様子が見て取れます。

桟敷とは、塀や柵の前(道路と側溝の内側)の築地(壁・囲い)に設けられた仮設物のこと。それまでは築地塀に囲まれた中に小屋がありましたが、次第に、築地を壊して建物を建てる、つまり、道に面して建てるという方法に変わってきます。このあたりから、家が直接道と関わりはじめ、町家の町並みの様相を呈してきたと言えます。