歴史

明治~昭和初期

吹き荒れる西洋文化の風

幕末の混乱に起こった元治元年の大火で市中の大半を焼失していた京都。明治維新ののち、国の中枢が東京へ遷ることにより、人口が流出し産業も衰退の方向へ向かいつつありました。しかしそんな暗雲を払拭すべく、一千年の都は急速に近代化の道を辿ります。

文明開化は建築の分野においても大きな影響を及ぼし、明治も末期になると木造の町家においても総二階の家が建てられるようになります。ガスや電気も整備されて生活様式が劇的に変化するとともに、伝統的な町家の建築手法にも変化が出てきます。大正期に入ると、西洋の文化が庶民の間でも広がり、町家の中にテーブルで椅子に腰かける応接間がある和洋折衷のもが現れます。建材や工法技術の急速な発展により、一層近代的な特性を備えた住宅へと変化していきます。

近代化する京町家

現存する京町家と言われる伝統木造家屋は、幕末の大火の後に再建されたものがほとんどであり、多くが大正~昭和初期(終戦頃)に建てられたものです。京町家も明治の初め頃までは江戸時代の流れを組んでいたようですが、急速な文明の発達と文化の西洋化に導かれ、庶民の住宅も多様化する傾向が出てきます。江戸時代中期に形成されたという、天井の低い厨子二階から天井高のある総二階へ、二階開口部の虫籠窓はガラス窓に変わり、また、西洋の洋館を模した部屋が造られるようになります。大正九年、「市街地建築物法」が施行されたことにより、徐々に、基礎や土台を設け、筋交いを採用するなど、古来より伝承されてきた建築手法が変化し始めます。

昭和の初め頃になると建築技術の進化とともに材料も多様化。それまで主流であった木製の格子に替わり、腰高に壁を設け、すりガラスや真鍮・アルミなど金属性のパイプの格子が取り付けらるような町家が次々と生まれます。また、近代化に欠かせない電気・ガス・水道の発達に伴い、おくどさん(竃)や通り庭はその役目を失い、徐々にキッチンや炊飯器にとって替わられその姿を消していきました。